家に帰りたい
家に帰りたい
父について話したい。
父は新潟県に生まれた。
その後、仕事を求めて北関東に移住する。
そこで北海道から移転した母と知り合った。
若い頃の写真を見ると、息子の私が言うのも何だが、かなりの二枚目である。
母と知り合った頃は製材工場で働いていた。
その父を在宅勤務へと追いやったのは病気である。
母は胃ガンを患うまでは健康そのものだったので、父の病気だけが心配だった。
そんな父が初めて体の不調を訴えたのは30年前。
私が小学生の時である。
診察の結果は母と同じ胃ガンである。
本人は胃潰瘍だと信じていたが、知らないのは父だけである。
当然入院を余儀なくされた。
病弱ではあったが大黒柱が倒れてしまったのだ。
ある時、夜中にバケツ一杯程の血を吐き、翌朝出勤して来た看護婦(現看護師)が「○○さん、よく生きていたわね」と話すのを聞いた。
しかし、母の場合とは異なり、あと何ヵ月というものではなかった。
その後、入退院を繰り返しながら、食道静脈瘤、肝硬変、胆のう炎などを患い、命に及ぶ大手術が3回。
病気の問屋さんだった。
そんな関係から、私は介護の経験と技術は人には負けない。
立ったまま眠る事だって出来る。
手と手を紐で結び寝る事は日常茶飯事であった。
家の中は至る所に手摺があった。
私が取り付けたのだ。
家中の段差をなくすための改修もした。
この間に母の他界。
この頃の我が家の経済が破綻していた事は≪推して知るべし≫である。
中学卒業後、私が上京したのには2つの理由がある。
1つは、社会人となって虐めから開放される事。
もう1つは、我が家の経済状況がそれを許さなかった事である。
働く事で家計を助けようとしたのである。
私は後に、働きながら学ぶという通信制高校に通う事となる。
「勇気をあげある」に掲載してあります。
話を戻すが、東京で働いていた20歳の冬。
突然、「帰郷しろ」との電話が入る。
「お父さんが危ないの!」と叔母からである。
病院に駆けつけた。近い親戚はみんな集まっていた。
血圧測定機、酸素マスク、その他の器具がベッドを囲む。
医師、看護婦(現看護師)が慌ただしく動く。
こういう状況を見るのは2回目である。
母の時とよく似ていた・・・。
末の妹はまだ高校生である。
私は覚悟を決めざるを得なかった。
母の時のように倒れたりはしない。
父も覚悟をしていたのだろう。
何を思ったのか、骨皮筋衛門となった腕から愛用していた腕時計を外し、私の腕にはめたのである。
この時、父が何を言いたかったのか私には解らない。
がしかし、多分、「子供たち(私の弟妹)を頼む」と言いたかったのではないかと思う。
最期の一言は「家に帰りたい…」だった。
思わず私の目から涙が落ちた。
2月27日。
厳寒の雪の中、父は55歳の短い生涯を閉じた。
若すぎた両親の死。
15歳と20歳で最愛の肉親を失った。
この二つの出来事が教えてくれたものは、何が起きても耐えうる強い精神力を培うという事である。
そしてもう1つ。
キザな言い方かも知れないが、周りの人を愛し切るという事である。
自分自身にいつ迎えが来ても良いように・・・。
わが人生は素晴らしかったと言える様に・・・。